研究レポートReport

第16回 内観力『とうとう、走れなくなった、、、、』

1992年を迎えた。
今年は、スペインで行われるバルセロナオリンピックがある。

昨年、追い風参考記録ながら10秒2で走った。
今年は、いい走りをして"日本一"を目指していきたいと思っていた。

1月、正月明け早々、宮城陸協の合宿が沖縄で行われた。
昨年の全日本実業団で、100M 6位入賞したので選ばれたので参加。
冬の寒い仙台から、暖かい沖縄でおもいっきり走りこんでいた。

そして、3月に宮城陸協で初の試みの合宿が静岡県で行われた。

昨年、東京で行われた世界陸上に選ばれた阿部 正道君や
平成2年の宮城インターハイ女子100MHで優勝した村上 貴子さんをはじめとする
宮城県の"成年の部"の合宿であった。

この当時、ミニハードルを使用したトレーニングが盛んに行われていた。
以前、書いた佐久間 紀郎先生が開発した『骨盤ドリル』だ。

阿部君や村上さんもこのトレーニングで強くなっていった。


佐久間先生を中心とした"骨盤ドリル"のトレーニングがメインで合宿が始まった。

ミニハードルを並べて骨盤を動かすトレーニングを行い、
今度は、ミニハードル間を腿上げ(正式には腿下げ)を速い動作で行う。
このトレーニングで"動作スピード"を向上させるのが狙い。

次は、ミニハードルの間を広げて走るトレーニングになる。
このトレーニングで"移動スピード"を向上させるのが狙い。

しかし、私は生まれて初めて『骨盤』を動かせと言われて戸惑い、
なかなかスムーズに動かすことが出来なかった。
トレーニングの意味が全く分からず、狭められたミニハードルを素早い動きで走る動作を私は全然できなかった。

(当時の私の走り方では無理なのはかなりの時間が経ってからである。)

私は、どちらかというとブレーキをかけてしまいながら走るので
よくミニハードルを蹴っ飛ばしてしまった。
しかし、阿部君は"シャカシャカシャカ"と軽快に走り抜けていくのであった。

練習中の動作をビデオに撮って、夜は、宿舎の壁に映して映像を見ながら反省会。

佐久間先生が一人、一人の動作を解説していくのだが
当時の私には、さっぱり分からないのである。
つまらないのトイレに行くふりをして部屋に戻っていった。

ただ訳の分からない練習をつまらなそうにこなす私であった。


その後、中京大に移動して1人で合宿を行った。

久しぶりに同級生の青戸君に会ったので"骨盤ドリル"のことを聞いてみた。

『100Mは理屈で走るもんやない~』

"松村はいつからそんな理屈ぽっくなんたんや~"と言われてしまった。


当時の青戸君の走りは独特で、膝下を伸ばして地面をまるで引っ掻くような走り方をしていた。
今では理解できるのだが、青戸君は常にアキレス腱痛を起こしていた理由はこの走法が原因であった。

青戸君に言われたことで骨盤ドリルが出来ないことが言い訳できるような気分になり
母校の中京大で走りこんでいた矢先に左足ハムストリングを痛めてしまった。
軽い筋膜炎だと感覚で分かったのだが久しぶりのケガに頭を痛めた。


その事を佐久間先生にTELして聞いてみたが
使えなかったハムストリンクが使えるようになってきたから
負荷が掛かってしまったのではないかといわれた 。

シーズンイン目前のケガだけにショックであった。

来月末に東京陸上選手権にエントリーをしていたので走れるかどうか心配であった。
仙台に戻り、治療をしながら軽いトレーニングを続けて何とか走れるようになってきた。 


しかし、スピード練習が出来ていないので自信はなかった。

それでも試合に出場したのは、憧れの国立競技場で走りたかったのである。
結果は無惨であったが全日本学生インカレで走れなかった時を思い出しながら走った。 


ケガも回復し、これからスピード練習のレベルを上げていって遅れを取り戻したかった。 


5月中旬に行われる、宮城県春季陸上と翌週に行われる東日本実業団で
きちんと走れるようにと練習にも熱が入った。

だが、治ったはずの足がまたもや痛み出してきた。
春季陸上の目前にも関わらず左足のハムストリングの張りが取れないのである。
ストレッチをしても針を打ってもらっても電気治療器をあてても一向に良くならない。 


当日、不安を引きずりながらサポーターをして100Mの予選を走る。
何気ない顔をして1位でゴールをしたが私の走りを見ていた父が近くに寄ってきた。

『また、やったやろ~』

その言葉に顔を下に向けて頷くのがやっとであった。

『その足では、来週の東日本実業団も無理やな~』

父のさびしそうな言葉に涙が出てきた。
無理もない、昨年、同じ大会で10秒2で4位になった時に
父が首から下げていたストップウオッチで、『10秒2』のタイムを計ってくれたのだから
息子の快走を期待していた父の気持ちを想うと胸が痛かった。

ケガのため、東日本実業団も棄権した。

バルセロナオリンピックがある年に
何のために一生懸命、練習してきたのかが分からなくなっていた。
誰よりも走ることが好きで、誰にも負けたくないから、誰よりも練習してきたのに、、、、、 


(数年後、一生懸命取り組んできた練習内容が故障(ケガ)の原因と知るまでは同じ事を繰り返した。)

いくらケガをしても大好きな陸上をやめることは出来なかった。

気を取り直して、7月の県選手権に向けて練習を再開した。
7月の県選手権で一応、走れるようになっていたが成績は良くなかった。
かろうじて200Mで2位に入り、8月に行われる東北総体の出場できることになった。 


実は、この年から仙台育英の女子の短距離を指導してもらえないかと
二階堂 邦博先生(故)に依頼されていた。
夏休みの合宿で山形県で高校生の指導をしながら自分のトレーニングもこなしていた。 

結局、男子の短距離も指導することになり、この日はグランドで300Mの走りこみをしていた。

高校生と一緒に走っていた最中に足が引きちぎられるような痛みが走った。

おもわず、その場で転び走るのをやめた。
近くにいた生徒が助けてくれて、やっと立てたのだが痛くて歩けないのだ。
この日は、父も見に来てくれていたので心配で駆け寄ってくれたのだが
父の顔もまともに見れないくらいに痛い。

"なぜ、俺ばかり、こんな目に遭わなければならないのだ!!!"

あまりの悔しさに泣きながら痛む足を引きずりながら歩いた。
今まで経験したことのない足の痛みに、二度と走れないのではないかと思った。
昔から肉離れは嫌というほど経験してきているのだが今回の痛みは初めてであった。

300Mを走っていたので、そんなにスピードレベルが高かった訳ではない。
なのに、筋肉を傷めてしまう原因が全くといっていい程分からなかった。
まして、歩くだけで痛い経験は生まれて初めてである。

"もう、陸上は出来ないかもしれない、、、、"

本当にそう思った。

自宅に帰り、治療法に関していろんな方々に治す方法を聞いてみた。
その中で、とにかく良さそうな事はすべて試してみた。
本当に、藁をもすがる思いであった。



次回の研究レポートは『科学の目で弱点を治す?』です。 5月15日の予定です。

<< 目次に戻る

このページのトップへ