研究レポートReport

第30回 内観力 番外編 『父との永遠の別れ、、、、そして、スポーツケア整体研究所の誕生』

1998年9月10日 早朝、自宅の電話が鳴った。
家内のお母さんからであった。

"卓さん、おめでとう! 元気な男の子が無事に生まれましたよ!"

長男が無事に生まれた。
早速、隣の実家に報告をした。
そして、一刻も早く子供の顔が見たいと父に話すが
こんな目出度い時にも仕事優先の父の姿がそこにあった。

"仕事の段取りはどうするつもりだ!"

その言葉に正直、驚いてしまった。
だが、周りに居た母や妹が助け舟を出してくれて
私が出来ない仕事をやってくれることになる。

この時の私は、仕事のことよりも子供の顔を見たい方が先であった。

ワクワクドキドキしながら新幹線で名古屋まで行き、電車を乗り継いで豊田市に到着した。
ちょうど豊田市駅前の病院に入院していたので急ぎ足で向かう。

家内と顔を合わせた。
二人で新生児室に向かい、子供の顔を見に行った。

"かわいいな~、本当によくがんばってくれた!本当にありがとう!"

家内に心からお礼を言った。
そして、病室に来た我が息子を初めて抱いた。
可愛くて、可愛くてたまらなかった。

(この時の感触は未だに残っている。)


嬉しい時間もつかの間、仙台で仕事の現場に戻るが不景気の波が強く売り上げは厳しい状態にあった。
父も様々な手を打とうと策を練るのだがなかなか好結果には結びついていかなかった。 


年が明けて、1999年。

仕事は相変わらず悪い状態が続く中で、
唯一、息子の篤君の存在だけが明るい話題であった。

そして、篤君初の端午の節句を迎え、父が納屋から五月人形を出してくれた。
仕事中は、厳しい表情の父もこの日はおじいちゃんの顔になっていた。

この頃から、父の体調がおかしくなり始めた。

病院に通院するのだが父の様態は改善の余地が見られなかった。
この年の夏は非常に暑い夏であったのだが父も暑さにまいってしまって食欲も減退していた。

1999年9月9日 父が亡くなった。 59歳。

すべて『9』揃いの日。
翌日は息子、篤君の1歳の誕生日であった。
父であり、私の陸上のコーチでもあり、尊敬していた父があの世に行ってしまった。

葬儀が終わるまでは絶対に泣かないと決めていた。

母や妹達、そして家内に気を使わせたくなかった。
気丈に何でもこなして悲しそうな顔を見せないように努めた。

それは、どこかで父が死んだことを認めたくなかったからかもしれない。

焼き場で父の骨を拾っても、まだ信じることが出来ない私であった。


父が亡くなってから本当にいろんな事がありました。
あまりにも辛すぎて、ここでは書けないことばかりです。
正直に言うと、"思い出したくない"と言うのが本音です。


2000年2月4日 有限会社 松村商店の代表取締役に就任。


しかし、不景気の中、父の残してくれた事業の尻すぼみ状態でした。
何か他の事業転換した方がいいと思ってはいたものの何をしたらよいのか分からない。 

母や家内に相談したり、いろんな方々に相談しましたが私自身に自信がなく躊躇していました。

自信がなかった私ですが前々からワールドウイングみたいな仕事をしてみたいという願望はありました。

でも、この仕事で食っていけるかどうかを考えると下を向いてしまう。
他の仕事では、外資系の保険会社の代理店でもしようかとも考えていました。
その方が世間的にも家内の両親にも見た目がいいかなと思っていたからです。

おもいきって代理店になるための説明を聞きに行きましたが心には響いてきませんでした。

そこで、今度は鳥取の小山先生の所へ尋ねることにしました。
小山先生なら事情を説明すれば、きっと分かってくれるはずだ。
ワールドウイングの仙台支店みたいな形で仕事をさせて頂けないだろうかと考えました。 


ワールドウイングに久しぶりに訪れ、その日の夜、近くの焼肉屋さんに行き話をすることになりました。

珍しく、小山先生と奥様の二人でお会いして頂きました。
早速、父の死から話を始め、松村商店の現状を包み隠さずお話させて戴いた後、
少ない資金で申し訳ないのですが初動負荷マシーンも2台購入させていただき設置したいことも告げました。

ありったけの想いを小山先生と奥様にお話しました。
しかし、返ってきた答えは予想していなかったものでした。

"タッ君の人柄には申し分ないのだけれども、、、、"

"実は、最近、初動負荷理論を我がもの顔で指導している輩が増えてきて困っているんだ。"

"イチロー選手にも助言されたんだけど、まがい物は排除していくべきだと。"

"それで弁護士の先生とも話を進めていて、ある規定を設けてそれをきちんとクリアしてくれる人に認定制度をする予定なんだ。"


そこで私は、小山先生に認定制度の内容を詳しく聞いてみたのだが、、、、、

その条件をクリアする為に必要になるお金は、今の私には到底支払える金額ではなかったのである。

『あきらめるしかないのか?』

頭の中では、思考する力が完璧に減少していった。


その状態の中で、小山先生から極めつけの言葉を言われてしまった。

"タッ君、それでもタッ君が似たような仕事をするというのであれば縁を切るのもやも得ない"

私の頭の中は、完璧に真っ暗になってしまった。

小山先生は、私に別な仕事をした方が良いと進めてくれた。
混乱している私は、話の辻褄を合わせるかの様に保険会社の話をしてしまった。

一人、部屋に戻った私は、自分の存在価値を否定された様な気持ちになり
ただ呆然と座ることしか出来なかったのである。

この日の夜は、いつもよりも長く長く感じられた。

翌日の朝、何とも言えない寂しい気持ちでワールドウイングを一人後にした。
今までの思い出が一瞬にして消えてしまったような気がした。
昨日の出来事を消化できないまま神戸に向かった。

神戸には、亡くなった父の知人のM社長に会う予定でいた。

M社長は、光化学、光農学、光医学の権威者で独自の開発した商品で商売をされていた。 

以前、父に薦められてM社長の所に勉強させて頂いたことがあったのだが
後半の方では、私の身体機能向上トレーニングの指導がメインになり、
ゴルフが大好きなM社長のスイングがみるみる良くなり大変喜んで戴いたことがあった。 


久しぶりにお会いしたM社長といろんなお話をした。
そして、鳥取でのお話も勢い余って話してしまった。
すると、M社長が私に向かって話し始めた。

"松村さん、それはおかしい話だよ!私は、その有名な先生の事なんか、これぽっちも知らない。
 その有名な先生から指導を受けたのが松村さんであっても私が松村さんから指導を受けたのは
 松村さんが私に対して指導してくれている時の思いやりや優しさ、そして何とか良くなってもらいたいという気持ちが嬉しくて
   素直に松村さんの指導を受けたのだよ! 松村さんの人柄が一番大事で鳥取の先生なんか何の関係もないのだよ!"


"その先生の許可がなければ指導できないなんて、そんな馬鹿げた話があるもんか!" 



と勇気づけてくれた。
涙が出るくらいに嬉しかった。


自宅に戻り、一連の話を母にしたのだが
自信のない私は、取り越し苦労ばかりして母に愚痴ばかり言っていた。
愚痴を繰り返す私に母はこう言ってくれた。

"私もM社長の意見と同じで、何も小山先生の許可が下りないからスポーツ関係の仕事が出来ないなんておかしな話だよ!
  小山先生に出来て、卓に出来ないこともあるけれども、卓に出来て、小山先生に出来ないことだってあるはずだよ!
    卓のことがいいと言ってくれる人は必ず居るはずだから自信を持ってやってみればいいじゃないか!"

母にもM社長と同じことを言われたが踏ん切りがまだ付かない状態がしばらく続いていた。

そんなある日、佐久間先生から電話があった。

以前、外資系の保険会社の代理店をするかもしれないと打ち明けていた後、
連絡をしていない状態が続いていたので心配して電話をかけてきてくれたのであった。 

ワールドウイングでの話しや神戸のM社長の話や母に言われたことなどをお話した。

"なあ、松村~ 今から言う事は酔っ払いの戯れごとだと思って聞いてくれな~ 勘弁して聞いてくれよ!
    おまえがさぁ~ スーツ着て、ネクタイ締めて、カバンを片手に持って、
        お客さんに頭をペコペコ下げている姿なんて、俺は絶対に見たくないな~!"

この言葉を聞いた瞬間に、なぜだか分からないが亡くなった父に言われた気がした。

まるで、亡くなった父が佐久間先生の口を借りて、私に話してくれているかのように思えた。

時間にして数秒の出来事だが、私は溜まっていたものが出てしまい泣いてしまった。

『佐久間先生、ありがとうございます!』

いろんな想いが込み上げてきた。
自信はない。しかし、本当にやりたいことはスポーツトレーナーやケアトレーナーの仕事であることだけは間違いなかった。
経験や知識はあっても商売として上手く成り立つのかどうかが心配で心配でたまらなかったのだ。
家内や篤君の寝顔を見る度に、堂々巡りの不安と毎日戦っていた。

佐久間先生から戴いたこの電話で、スポーツトレーナーへの道を進むことを心に決めた。 



2001年6月20日  スポーツケア整体研究所を開設した。



今、思い返せば、あの時、小山先生に断らなければ
ペットボトル整体も骨整体も生まれていなかったと思います。
初動負荷マシーンが手に入らない、ワールドウイングに勉強しにも行けないという状況があったからこそ
一切、頼らずに暗中模索の中で新しい方法を探し求めてこれたんだと思っています。
そして、どうしたら再現性の高いトレーニングを開発することが出来るのであろうかと探究心が生まれることもなかったことでしょう。

小山 裕史先生には心から感謝を申し上げます。

身体をいつでも上手く動かす為には、"屋台骨"が必要であることに気付かしてくれたのは佐久間先生のお陰です。
佐久間先生のお陰で、骨盤や肩甲骨を動かすコツや身体の内側から相手の動作を読み取るミラーニューロンを教えて頂きました。

佐久間 紀郎先生、本当に心から感謝を申し上げます。

スポーツケア整体研究所を開設した後、いろんな疑問が私の探究心を更に強くしていきます。
開設当時から、人間の身体には、なぜ、取扱い説明書がないのだろうかと真剣に考えていました。
その答えを探し出したくて突き進んでいくことになる訳ですが、、、、、



次回の内観力は、『軸のない動作に意味があるのか?』です。10月10日の予定です。 

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